久留里城は天文から永禄・天正期にかけての里見氏全盛の時期の本拠として広く知られていますが、実はいつ頃里見氏の城になったのか、という根本的な問題に関しては諸説あり、定まっていません。これには、「天文の内乱(天文二〜三、1533〜1534)」という、里見家内部の分裂騒動が深く関係して、系図が意図的に改竄されたり、年代的に整合性を持たせようと作為的に歴史を書き換えたりしたことが関係しているようです。軍記物などでは「明応六(1497)年、里見成義が久留里進駐」というような記述もあるのですが、この時期に上総中央部である久留里まで里見氏の勢力が伸びていたとは考えにくいこと、上総南部を支配していた武田氏とはこの時点では友好関係にあったこと、そもそも成義自体が、天文の内乱で嫡流である「前期里見氏」を滅ぼして家督を簒奪した後期里見氏が、その行為を正当化する材料として歴史に挿入された、実在の可能性の薄い人物であること、などから、この時点での久留里進駐はない、とほぼ断定できるかと思いました。また、この天文の内乱の時期に里見義堯が久留里城に在城していた、という話もありますが、これも前後関係を考えれば、金谷城あたりにいたと考えるのが妥当でしょう。多くの里見氏研究書でも、そのように説明しています。では里見氏の久留里進駐はいつだったのでしょう?この点について、以前はここで稚拙な論を展開しておりましたが、自分なりに整理した結果を「雨城興廢記」の頁にまとめてみました。基本的には天文六(1537)年から十二(1543)年ごろの間ではないかと考えています。
久留里城には小ぶりな美しい天守が建っていますが、これは模擬天守ながら雰囲気はあります。天守が築かれたのは黒田氏が城主についた頃で、この頃には城の主要部は山麓の「御屋敷」と言われる場所(三ノ丸・現在は水田)に移っていました。この模擬天守や二の丸博物館も悪くありませんが、時間がある方は駐車場から天神曲輪への林間コース、また車道上の尾根上の散策路をぜひ歩いて欲しい。山城らしい小さな曲輪群や堀切が見つけられるはずです。南側の尾根続きにも堀切や垂直削崖が残り、里見系中世城郭の特徴がよく見られます。技巧的、とまではいきませんが、築城形態が古めかしい城が多い里見系の城郭としては、縄張りといい規模といい、佐貫城などと並んで最高峰に位置する城と言えます。ここは実はお気に入りのお城で、何かに付けては立ち寄っています。
なお、この北方の尾根続きには、真里谷武田氏が最初に築いたとされる「上の城(古久留里城)」があります。
■久留里城の構造

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久留里城の立地についての考察は「雨城興廢記」の頁に記載したのでそちらをご覧頂きたい。ここでは、「城山」、つまり現在我々が「久留里城」として認識している標高145mの山を中心とした遺構群を考察する。いわゆる「古久留里城」(「上の城」)については別立てで考察することにさせて頂く。
T曲輪からU曲輪、V曲輪にかけての長い峰が久留里城の主要部、主尾根である。T曲輪はいわゆる主郭・本丸にあたり、現在は小ぶりな模擬天守が建っている。ここでは、里見氏時代の掘立建物跡なども検出されており、里見氏時代にも用いられていた。標高は一番高いが、実は城下集落からは少し引っ込んだ位置にあり、眺望はあまり良くない。実際の戦闘を指揮する場所としての役割はむしろU曲輪に譲り、専守防衛に徹した「詰」の空間であろう。
これに対しU曲輪はT曲輪よりも高さこそ10mほど低いものの、ここからの眺望は非常によく、とくに防衛戦に於いてはここが実質的な戦闘指揮所であろうと思われる。T曲輪とU曲輪の間には堀切はなく、痩せ尾根一本で繋がっている。T曲輪とU曲輪は表裏一体、ふたつで一つの空間を形成していると考えてもよさそうである。ここがいわゆtる中世城郭でいうところの「実城」に相当するであろう。
V曲輪は近世の「煙硝蔵」と呼ばれた曲輪である。U曲輪からは、100mほど痩せ尾根が続いた後、ストンと落ちてV曲輪に至る。このV曲輪から「上の城」とのネック部(城山隧道附近)までは緩やかに傾斜しており、削平もやや甘い印象がある。地形的にもT・U曲輪附近の痩せ尾根地形と比べると、随分緩やかな地形である。ただ、近世に新たに城域に組み込まれたとは考えにくいので、やはり里見氏時代から曲輪として用いられていただろう。基本的には「三ノ丸」というよりは外郭に近い位置づけの曲輪であろう。
むしろ、「三ノ丸」に相当しそうなのが主郭から北東方面に伸びる支尾根(仮称「東尾根」)にあるW曲輪である。この支尾根自体、かなり加工度の高い遺構が続いており、この尾根だけでも独立した山城に匹敵しそうな程である。W曲輪はその中でも最大の曲輪で、山麓からT曲輪へと至る経路の最上段に控えている。そういう意味では三ノ丸というよりも、「東二ノ丸」と呼ぶ方が実態に沿っているかもしれない。周囲の堀8・9・10なども非常に規模が大きい。
その他、重要な曲輪としてはX曲輪、通称「獅子曲輪」の存在がある。ここは山麓からU曲輪へと直接至る支尾根(仮称「西尾根」)の中腹にあり、ある種の突角陣地でもある。『総州久留里軍記』などで語られる久留里城の攻防においても、「獅子の曲輪」「獅子坂」「獅子口」などの地名が頻繁に登場する。久留里城にとってここは防衛拠点であると同時に、敵兵を追い散らすための出撃路でもあったであろう。この尾根は全体に隙間無く垂直削崖が連なっており、切通しの険しい坂が続く。。ただし、二ノ丸にある久留里城址資料館の給排水管が敷設されているところを見ると、後世に手を入れている可能性もある。ちなみにこの尾根を降りて城下の集落に行こうとしたが、途中でぬかるみ状の湿地帯に阻まれ引き返さざるを得なかった。さらに言えば、現在は危険なため、一応通行禁止になっている。どうしても行く場合は自己責任で歩くしか無いだろう。
この他に、久留里城には小規模な腰曲輪が沢山ある。その中には弥陀曲輪・波多野曲輪・久留里曲輪・鶴の曲輪・薬師曲輪などのように、名前がついているものも多い。こられの名前が何時つけられたのか、中世の時代もこんな呼び方があったのかどうか、などは分らない。こうした腰曲輪は大抵支尾根の付け根に設けられ、周囲を削崖し腰曲輪の先を掘り切って急崖を形成している場所がほとんどである。鶴の曲輪や弥陀曲輪などの周囲の崖は特に険しい。 南側の尾根(仮称「怒田尾根」)にも延々と築城施工が見られる。ここには曲輪らしい曲輪はほとんど無く、延々と垂直削崖が続き、所々を堀切で断ち切っている。なかでも堀4などは城内最大級の堀切である。ここから先は久留里城の支城の一つである怒田砦まで尾根が繋がっているのであるが、1km近く尾根を進んでみたが砦らしい場所はよくわからなかった。 最後に、里見氏時代の館であるが、近世三ノ丸に相当する「御屋敷」地区にあったとする見方もあるが、どうも個人的には賛同できない。むしろ、現在駐車場やレストハウスのある谷戸の方が適地である。里見氏の築城スタイルを考えると、『鎌倉スタイル』の谷戸式城郭を基本としているように見える。この久留里城でいえば、主尾根・東尾根と「上の城」に三方を囲まれた谷戸であるこの場所こそが、最も里見氏好みの立地に思える。この三方の尾根には濃密な城郭遺構があることや、本来大堀切があってもよさそうな城山隧道附近のネックに敢えて堀切を入れていない点などを考慮しても、久留里城はこの谷戸を守るための城郭であるように見えてならない。それに、「御屋敷」地区では当時の深田などを考慮したとしても、あまりに要害が悪すぎる。『総州久留里軍記』などでは獅子坂口の戦闘の模様が描かれているが、獅子坂まで敵が押し寄せるようであれば、「御屋敷」地区に館があったとしたらy当然、兵火にかかってしまう筈であるが、そのような記述は見られない。軍記物の記述などあてにならない、と言えばそれまでだが、もし城主の館が炎上するような場面があれば、面白さが売りの軍記物が採りあげない筈が無い。このように考えると、やはりこの谷戸こそが城主の館であり、久留里城の中枢と考えられるのである。御屋敷地区に城郭が構えられるのは、やはり近世中盤の黒田氏入封の頃だろう。ただ、御屋敷地区にも多少の家臣団屋敷などはあったかもしれない。とくに軍記物でいうところの「獅子坂口」や、浦田集落附近と考えられる「大門郭」などには、若干の馬防柵や鹿砦を置いた家臣団屋敷くらいはあったかもしれない。
[2006.08.28]
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