『久留里城址資料館』    
『久留里城』は戦国時代の里見氏の本城、 本丸跡に天守閣、二の丸跡に久留里城址資料館』
◆久留里城の別名は「雨城」

久留里城は別名を「雨城」といい、その築城の際や完成後に長雨が降り続いたためとまたこの城山にはよく霧がかかり、遠くから見ると雨がふっているように見え、城の姿が隠蔽され、敵からの攻撃を受けにくかったためともいわれています。

◆戦国時代の久留里城は?

戦国時代初め、房総で勢力をふるっていた千葉氏が分裂闘争を繰り返し、その勢力が次第に衰えた頃、武田信長は上総に入国し、房総半島中部の庁南(現長南町)と真里谷(現木更津市)に築城し、上総武田氏の祖となりました。
その後、この上総武田氏一族の信房、武定、真勝は現在の真勝寺〔真勝開基〕上の丘陵に、「初期の久留里城」を築き居城しました。
上総武田氏が天文七年(一五三八)の国府台合戦の敗北や一族の内部抗争などで支配力が著しく弱まった頃、里見氏が上総への侵略を加速し領国化の重用拠点として注目。里見義堯(六代)は、初期の久留里城の南東の丘陵に新しく城を築きました。この頃、小田原の北条氏は関東の制圧に乗り出し、房総にも鉾先を向け、一時久留里城も北条氏に包囲されますが、里見氏の本城として機能を保ちました。久留里城が最も軍事的要塞としての役割を誇示発揮した時代でした。

家康が関東に入ると、久留里には大須賀忠政が三万石で配置され、この間、小櫃川右岸で大規模な土木工事を行い、新町(現上町・仲町・下町)を造って商業地として繁栄させました。忠政が関ケ原の戦いで武勲を上げ、三万石を加増されて旧領地の駿河横須賀に転封すると、土屋忠直が二万石で入封、その後二代、三代と続くが、頼直(三代)は僅か四年で改易に。土屋氏が去り、久留里藩の領地は四代将軍家綱の大老であった酒井忠清の加増地となり、久留里城も廃城に・・・。それから約六三年を経、寛保二年(一七四二)上野国(現群馬県)沼田より黒田直純が上総に転封され久留里城主となりました。直純は幕府の信望厚く、久留里城再興のため、金五千両を拝領して寛保三年より三年近くを費やして大規模な城の修築を行いました。その後、久留里藩は黒田氏累代の治政の下、城下町として約一三〇年も栄え、直養(一〇代)で明治維新を迎え久留里藩の治政に終止符を打ちました。明治二年、直養は久留里知藩事となり黒田家は子爵の待遇を受け、一時東京に。晩年は書画を愛しながら久留里で過ごし、大正八年に七一才で亡くなりました。黒田家当主は、現在、十四代目で横浜市に在住しています。
◆久留里城址資料館では?
君津市立久留里城址資料館は、昭和四三年旧上総町当時、町の明治一〇〇年事業の一環として、久留里城天守閣の復元を計画。昭和五二〜五四年にかけ、観光的シンボルの天守閣が本丸跡に復元され、教育機関的な久留里城址資料館が二の丸跡に建設されました。資料館は昭和五六年に博物館として登録され、平成八年には入館者四〇万人に到達。「ふるさとの歴史と自然をたずねて」をメインテーマに歴史や文化をわかりやすく展示・解説しています。